ハッピーエンド主義デジタル

おにぎりです。オタクです。

太陽と月CPとは―神話的視点からの考察―

  1. はじめに

 これは、私が主催したイベント「性癖討論会 フェチコン」にて発表した、プレゼンテーションの資料になります。

 実際に配布したものに、加筆訂正を加えていますので、紙資料持っている方も読んでいただければと思います。

 

フェチコンって何?という方はこちらをご覧ください。

twipla.jp

 

 

  1. 対比CPとしての「太陽と月CP」

 あなたは「太陽と月CP」という言葉を聞いたことがあるだろうか?Twitterで検索をするとわかるが、いわゆる腐女子の間で知見されるカップリング属性の一種である。(実際、35人中女性が3人しかいない会場で「太陽と月CP」を知っている者はいなかった。)

 攻めと受けをそれぞれ、太陽と月になぞらえているカップリングだ。攻めが太陽か月か、はたまたその逆は見る人によって異なる。

 端的に言おう。私は太陽と月CPが好きだ。好きである理由を語るためには合成音声以外の自分の推しジャンルについて語らねばならない。

私はコロコロコミックなどの男児向け作品を好む。例えば、ベイブレードデュエル・マスターズ妖怪ウォッチ怪盗ジョーカーなど、ポケモンもそうだろう。

 小さい頃から漫画好きだったため、私は年の近い弟のコロコロを読み、一緒にベイブレードを見て育った。(勿論、現在も視聴している。)オタク趣味がある友人に、自分は男児向け作品を好む旨を伝えると、いい歳なのに・子供っぽい、と反応を示す人もいた。

なぜ自分は男児向け作品が好きなのか、明確な答えを出せずにいるが、その答えの一つとして、「主人公とライバルの関係性が堪らなく好きだから」と回答したい。

 これは男児向け作品に限らず、バトルモノの少年漫画全般に言えることでもあるが、このような作品は主人公とライバルの関係が明瞭である。

 どこか拗れていたり、俺TUEEEといった主人公の多様化が進む中、男児向け作品の主人公は明るく、まっすぐで挫けない。みんなを惹きつける、魅力を持っている。

 例えば、『デュエル・マスターズ』の初代主人公の切札勝舞。彼は明るく、どこまでもデュエルが好きで、多くの仲間に慕われる。そして、闇落ちしたライバルや、世界を救う「英雄」であり、正しく主人公と呼べる存在ではないだろうか?

 また、『イナズマイレブン』の円堂守も、同じく円堂を中心に仲間が集い、時には人を救い、一致団結し、大会に優勝し、宇宙人()の侵略などに立ち向かう。このような主人公は比喩として「太陽」と呼べるのではないだろうか?

 実際、『爆Tech!爆丸』の主人公、日ノ出春晴のように作中で太陽と例えられる場合もある。

 対して、ライバルはどうだろうか?主人公は一人であるが、ライバルは作中に複数存在する場合も多い。

 しかし、男児向け作品の場合には、主人公に「最大のライバル」が存在する。例えば、『爆転シュートベイブレード』の火渡カイ。主人公・木ノ宮タカオには、水原マックスや金李といった、複数のライバルが存在するが、カイにとって最大のライバルはタカオであり、タカオにとっても同様である。

 ここで本題から逸れるが一つ注意して欲しいことがある。ライバルは「敵」ではない。明確な「悪」ではない。確かに、最初は敵である場合もある。しかし、「好敵手」と書いて「ライバル」と読ませるように、彼らは敵であって敵にあらず、敵であったが時には協力しあう仲間であり、誰よりも主人公にとっての理解者であり、時として主人公と対立する。「好敵手(ライバル)」という表現を初めてした人には、Amazonの欲しいものリストを公開して欲しいほどである。

話を戻そう。男児向け作品におけるライバルという存在は主人公と身体的・心理的にも相反する存在として描かれることが多い。

 いわゆる明るい「THE男児」な、明るく活発で子供らしい容姿の主人公に対し、ライバルは「美少年」と呼べる容姿で、仲間の多い主人公に対してクールで冷静な性格であると、「対」になる描写が多く見られる。

 現在放映中の『ベイブレード・バースト』の明るく、考えるよりも先に行動をしてしまう主人公・蒼井バルトと、冷静で努力の天才のライバル・紅シュウはいい例だろう。二人のイメージカラーも青と赤なので、対の関係になっている。

 このように、無論男児向け作品のみならず、主人公、もしくはそれに準ずる「太陽」と呼ばれる存在に対し、ライバルのような対となる存在は「月」と例えられるケースを(主に腐女子の間で)よく見かける。

 この「太陽」と「月」の構図は、公式側が意図的に、わかりやすく組んでいるケース(例・『ファイ・ブレイン 神のパズル』における主人公・大門カイトと、親友であり1期のラスボスのルーク・盤城・クロスフィールドは、作中で「太陽と月」に比喩される)もあるが、ファンが二人の関係性を「太陽と月」と例える場合もある。Twitter上では2011年から観測できる[1]

 

 しかし、何故「太陽」と対となる存在として「月」が掲げられるのだろうか?言うまでもなく、太陽は太陽系の中心たる恒星、月は地球の衛星である。

 天文学的に見て(私自身、専門的知識は有していないが)、両者間に対比構造が成立するとは言えない。それに、単に対比構造から成り立つCPであれば、太陽と月に例える必要はない。

 なぜ太陽と月に例えられるのだろうか。

 本論では、太陽と月CPが対と呼ばれる理由を探り、人々の思想・真理の集大成である「神話」から太陽・月の持つ精神性、そこから導かれる太陽属性、月属性の定義、カップリングとして萌えるためにはどうすればいいかを述べていく。

 なお、筆者は神話学や心理学を専門としているわけではない。また、時間の都合上、調査研究が追い付かず、その場のノリと萌で書いてしまった部分もあるので、特定分野の論文として読み、参考にして、学会発表で大恥かいたなど言われても保証できないので留意されたい。

 そして、本論を執筆するにあたり、ジュールズ・キャシュフォード著、別宮貞徳・片柳智恵子訳『図説 月の文化史』(柊風舎、2010年)を大変参考にした。月と人間の関係性を深くしりたい人には講読を薦める。(なお筆者は難解すぎて全部読めませんでした…)

 

図説 月の文化史 (上) 神話・伝説・イメージ

図説 月の文化史 (上) 神話・伝説・イメージ

 

 

  1. 太陽と月を考える

    • 「月」とは何か

 太陽と月CPを語るためには、「月属性」の定義と、「太陽」属性の定義を述べなければならない。ここで導入として、知識の疎い自分用に調べた、日本国語大辞典の解説を引用する。(読みやすくするため、一部、漢数字をアラビア数字に改めた。)

 

太陽【太陽・大陽】

①太陽系の中心にある恒星。太陽系を支配する巨大な高温のガスの球で原子核融合反応によって発生する膨大なエネルギーは電磁波または微粒子として周囲の天体に伝播される。質量は太陽系の全質量の99.8パーセントを占める地球の33万倍、半径は地球の109倍。地球からの距離1億4960万キロメートル。自転周期約27日。光球の表面温度は摂氏約6000度、外側のコロナでは100万度にも及ぶ。古来、万物を育む光と熱の源泉として、生命力・美・青春などの象徴とされる。日輪。火輪。

②あこがれている人。心のささえとなる異性。

 

つき【月】

①天体の月。また、それに関する物、事柄。⑴地球にいちばん近い天体で、地球のただ一つの衛星。半径1738キロメートル。玄武岩質で組成され、大気はない。27.32日で自転しながら、約29.52日で地球を一周し、その間、新月・上弦・満月・下弦の順に満ち欠けする。太陽とともに人間に親しい天体で、その運行に基づいて曆が作られ、神話、伝説、詩歌などの素材ともされる。

 

 太陽は「万物を育む光と熱の源泉」であり、月もまた、「月」という語義に時間の単位が含まれるように、互いに人の営みと密接な関係にあり続けている。

 現代の私たちからすれば、猛暑や旱魃など、今でも太陽の影響(だけではないのは勿論だが)によって振り回される問題も多く、太陽の方が人間の生活にはより密接していると感じるかもしれない。しかし、古代の人々にとっては「月」の方がより人間の営みにおいて密接な存在であった

 想像してみて欲しい。今のように電気もなく、夜になれば辺りは暗闇に支配されていた時代を。人々は太陽と月を認識する前に、まず「昼」と「夜」、そこから「光」と「闇」を意識した。その光の象徴が「太陽」であり、闇の象徴が「月」なのであった。既にこの段階で太陽と月の対比構造は構築されたのだ。どうしよう本論終わっちゃった。

 

 先述の通り、月の方が太陽よりも人間生活にとって身近な存在であったが、そこには太陽と月の明瞭な違いがある。

 太陽は日中、姿かたちを変えることない。しかし、月は三日月、満月のように日ごとに姿を変える。その月の変化から、女性は自らの体の周期を感じ取っただろうし、月の変化から太陰暦のように暦も生まれる。

 フランス・ドルドーニュ県のブランシャール壕という岩窟住居で発掘されたクロマニヨン人の骨には月の周期のような模様が刻まれているという。

 月のサイクルはまず、新月と満月に二分され、次に満ちて行く三日月と欠けて行く三日月を加えて4つに分けられた。そのため、古代において月は、死と再生の予兆とされていた。

 

この、月の死と再生について記された最古の神話として、シュメールの詩、『イナンナの冥界下り』が挙げられる。

イナンナは月の神ナンナと、沼沢地の女神ニンガルの長女で、天の女王であり、月とされる。死の世界の女王の姉の夫の葬儀に参列するため、冥界に下ったイナンナは姉に殺され、三日三晩戻らなかった。イナンナの帰りを待つ侍女と夫の助力でイナンナは再生する。この神話の表すところは、三日月から満月、新月を経てまた三日月へと変化する様子を示している。

 

  ところで「月」の語源をご存じだろうか?漢字の「月」は月の象形文字であるのは有名だが、音読み「ゲツ」は満ち欠けの、「欠(ケツ)」が由来とされる。訓読みの「月」には諸説あるが、「光が『尽き』る」の「ツキ」が語源とされる。どちらも月の満ち欠けが由来と言える。

 はたして、「moon」の語源はどうだろうか。

 インド=アーリア語の「月」の語源は「天体の月」を意味する「me」、サンスクリット語では「天体の月」、「曆の月」を意味する「ma」「masas」である。同語源の言葉に「測定(ラテン語で「mensura」)、」「知恵、洞察、俊敏さ(metis)」、「心、意図、勇気、精神(menos)」、「心に留める、覚えている(mnasthai)」など、「心を使う」語が多い。

 なぜ、月と心の語源は同じなのか。『月の文化史』の言葉を借りるなら「月と心が、相互に洞察し合う長いプロセスの頂点としていっしょに人間の意識に到達したことを示している。」[2]、つまり月と心は「思考」という点での行きつく先が同一であることを意味する。

 月の神々もまた、思考に関わる者が多い。例えば、ヒンドゥ―教のヘビ女神・マーナサは、その名が「心」、「考え」を意味する。エジプトの月神・トトは筆記と知恵の神であり、真理の女神・アマトの配偶者だ。 

 

 話を月の姿かたちについて戻そう。月には「明るい面」と「暗い面」が存在する。

 わかりやすく言ってしまえば、太陽の光が当たり、私たちが見ることのできる部分、できない部分のことだ。右向きの三日月と、左向きの三日月、この2つは月の周期を分割する基準にもなるが、「月」自身に「陽」と「陰」の対比構造を生み出した。中国の太極図はまさしくそれだ。

 神話においても、月の神が2柱登場するか、1柱の月の神が二面性を持つ場合が多い。

 ギリシア神話のアルテミスとヘカテーは本質的に異なる神であるが、月女神の二面性としても捉えられる。若く、野性的なアルテミスに対し、年長で予言能力を持ち、死を連想させるヘカテー。だが、月の周期において、月は死を司るのみではないことは先に述べた通りで、同時に豊饒を願い、ヘカテーを産婆に見立てるケースもある。アルテミスも救済を行うだけでなく殺人を犯す。

 メラネシアニューギニアにも対照的な2柱の月の神がいる。1柱は明るく善良な幸福をもたらす神、もう1柱は暗く、邪悪で不吉な神である。

 以上、わずかながらであったが、「月」についての調査である。そこから「月属性」を持つキャラクターとは、を考える前に「月」の信仰が「太陽」に移り変わる過程を見ていきたい。

 

  • 月から太陽へ

 古来より、月は人々の生活に密接にあり、崇拝対象にもなっていた月だが、時代が進むにつれ、その姿も変容する。

 創世神話における太陽と月は同時に生まれる描写が多い。フィンランド叙事詩『カワレラ』では、地母神が生んだ卵の下半分が大地に、上半分が天空へと変容し、黄身から太陽が、白身から月が生まれた。中国の神話では、陰と陽の子供、「盤古」が孵化し、大地と空になり、盤古の死後、その眼が太陽と月が生まれた。

 太陽より月が人々の信仰を集めていた理由としては、時間や変化の概念を司っていたためである。

 古代では狩猟の成功、農作物の成長、健康や病気の治癒、不死さえも太陽ではなく、月の贈り物だと考えられていた。植物が育つには勿論、太陽の光を必要とするわけで、太陽に向かって伸びるが、精神的な成長の部分を月が担っていた。

 しかし、農耕が生存手段として重視されると、成長は月の満ち欠けによらず、太陽の光と熱へと移り、暦も月から太陽の運行へと変化する。

 だが、月の信仰が衰えたわけではない。

 太陽の光は時として暴力的なものでもある。インド、メソポタミア、エジプト、アフリカ…灼熱の太陽がもたらすものは恵みであったとは考えにくい。

 実際、エジプトではオシリスとイシスが太陽神レに取って代わることはなかった。

 

 しかし、時が進むにつれ―父系社会の成立や変動することのない太陽が結びつき、月の信仰から太陽の信仰への移り変わりは、女神信仰から男神信仰への移り変わりと等しい。

 

 ここまで長くなり、「もう太陽と月CP関係ないじゃん」と思った方もいるかもしれないが、ここで一例を出そう。

 

 『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズ(第二作、『~G』で初登場)に登場する「暁切)歌」と「月読調」はその名の冠する通り、それぞれ太陽と月を意識したキャラクターである。作中でも2人ペアで行動することが多く、キャラクターソングもメロディが同一であったりと、大変、二人一組を意識したキャラクターである。調のキャラクターソング「メロディアス・ムーンライト」のサビ部分にこのような歌詞がある。

 

    月はいつでも自分だけじゃ輝けないの

    二人で一つだよ[3]

メロディアス・ムーンライト

メロディアス・ムーンライト

 

そして、対となる切歌の曲、「デンジャラス・サンシャイン」のサビの歌詞はこうだ。

 

              月を守る太陽である為何ができる?

              キラリ輝け!Sunsine

              二人で一つだよ[4]

デンジャラス・サンシャイン

デンジャラス・サンシャイン

 

 この歌詞から、切歌と調の太陽と月の関係では太陽優位であることがとれる。

 太陽崇拝へと移る原因として、「月はいつでも自分だけじゃ輝けない」、ギリシアで、月の光は太陽の光が当たることによる輝きだと解明されたことも影響した。そして、キリスト教の誕生。キリストもまた、太陽に象徴される。

 

(余談だが、シンフォギアメソポタミアの神話を根底に敷いているところがある。だが、メソポタミアの時代はまだ月信仰の時代であり、月のメカニズムも解明されていない。)

 

 そして、太陽崇拝が確立する中で、「太陽」の象徴としての意味、そして「月」の見方も変化する。

 

 月が太陽の光を反射して輝いていることがわかると、月の担っていた信仰が太陽に移管し、月の「永遠」というイメージは不変な太陽に移りかわる。

 永遠の太陽と、「時」の枠組みで生き、死と再生を思わせる月は次第に、「太陽に依存するもの」という考えが生じた。ハンムラビ王、「太陽王」と称されるルイ14世など、「永遠」の太陽と、王たる自身を太陽に結び付けることによって、権力の誇示をする者もいた。

 太陽に依存する月の例として、冒頭にも挙げた『ファイ・ブレイン』のルークが挙げられる。太陽たるカイトが自分の元を離れてしまうことで発狂する描写は多くの視聴者に衝撃を与えた。[5]

 

ここまで古代の在り方から太陽と月を考えてきたが、逆に太陽と比喩される人物を見てみよう。

 

 『シンフォギア』の切歌は明るく、天真爛漫な少女であり、信念も固く、2期での親友との戦いにおける、少々融通の利かない、言い得れば頑固がすぎる描写(重大なネタバレ)はファンにとって覚えはないだろうか。

 

 日本ファルコムのゲーム『空の軌跡』の主人公、エステル・ブライトも「ブライト」の名が冠すように、明るく、誰とでもすぐに仲良くなってしまう少女だ。彼女もまた、自分の信念を貫く少女であり、「月」となる幼馴染にして相棒の少年、ヨシュアを探すべく東奔西走する。エステルの明るさはヨシュアや敵対する少女・レンなどさまざまな人々を救う。

英雄伝説 空の軌跡 FC Evolution - PS Vita
 

 このように、太陽属性を持つ人物に共通するのは「明るい」「天真爛漫」「固い信念」(悪く言えば頑固)というところだろう。

 しかし、その「明るさ」は同一のものだろうか。

 実際の太陽を想像して欲しい。

 明け方の太陽と正午の太陽、同じ太陽でありながらも受ける印象は異なるのではないだろうか?

 先に例を挙げたエステルは物語中で、誰かをつつみこむ、陽だまりのような優しさを持ちながらも、信念を貫く真昼の太陽のような絶対性を持ち合わせる。

 これは太陽神が女神である場合の傾向で、男神の場合、なおのこと、決して闇と結びつかない、揺るがない光となる。

 男神の太陽が多い西洋では、絶対的な太陽の視点から考えると月は移り気で、死を連想させる存在である。はたして、月から見た太陽とはどうなのか。

 月から見た太陽は、眩しすぎる光だ。頑固で、単純、直感的である。そして、太陽は「知」の象徴ともされた。「知恵」や「智」ではない。

 

 「知」とは何か。 『日本国語大辞典』では、「物事を認識し、是非・善悪を判断する能力。」としている。

 続いて、諸橋轍次編『大漢和辞典』では、「心内に認識すれば言葉として口に発すること矢の如く速やかなる故に、矢と口とを合せて、しる意を表はす。」と語義を記している。

 つまり、「知」とは「認識し、発信する」ことである。月によって「心」を覚えた人類は太陽によって、「知」を得て、認識と判断を覚えた。「知」は文明の発達に不可欠であった。

 ちなみに、似た字に「智」という字がある。同じく『大漢和辞典』では、「知」と「智」の違いを「智には作意が加はつてゐる」としている。「知」が無意識的であるなら、「智」は意識的なのだ。

 「心」が外的情報を内に留める「受信」であるなら、「知」はそれを伝えていく「送信」に当たると言える。

 

 筆者の推し作品の一つに『爆Tech!爆丸』という漫画がある。

 冒頭でも少し触れたが、主人公の日ノ出春晴は作中でも「太陽」と呼ばれ、明るく、爆丸の好きな負けず嫌いの、芯の通った少年であり、正しく先に述べた「太陽」に当てはまる。対して、彼の「月」が幼馴染で親友の黒無来智である。

 力強いプレイングの春晴に対し、ライチのプレイングはテクニック重視。2人の容姿も活発な少年と中性的な美少年と見事に対となっている。

 ライチは知的で冷静、春晴にとっては一番のライバルで理解者だが、春晴が、そして本人さえも知り得ない仄暗い秘密を抱えており、(春晴に比べると)精神的に弱い部分もある。

 まさに月の「心」と、月の明るい面・暗い面を持ち合わせたキャラクターだ。

 時に喧嘩し合うこともあるが、誰よりも互いのことを理解し、信頼している。ライチがいたから春晴は爆丸を続けられたし、ライチもまた、春晴がいなければ爆丸を続けることがなかった。2人一緒でなければ爆丸を続けることはできなかったのだ。

 

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 ここまで太陽と月の変遷を見てきたが、文化的に見れば月がなければ現在の太陽の信仰は成立しなかったと言っていい。

 先ほど例に挙げた、シンフォギアの楽曲を是非同時再生して欲しい。この2曲は重ねることによって新たな1曲として生まれかわり、特にサビ部分は見事な掛け合いが成立する。

 しかし、太陽が存在しなければ、太陽と月の対立構造は成立せず、そもそも天体として月は輝くことができない

 現代における太陽と月を意識した作品は西洋的太陽信仰が根幹にあるだろう。

 しかし、月の存在が太陽を太陽たらしめ、その逆も言える。人間の「心」の発達と共にあった月。人間の「知」の発達と共にあった太陽。2つは対となりながらも、互いの存在を成立させる無二のパートナーなのだ

  1. まとめ

 太陽と月は、人が「昼」と「夜」を意識したときから、対となる存在と義務付けられていた。人々の信仰は生活に密着していた月が先であり、文明と科学の発達により太陽崇拝が盛んとなった。

 さて、ここで「太陽属性」と「月属性」の定義をまとめよう。

 「太陽」は絶対的で永遠、闇など存在させない圧倒的な光である。その輝きは、真昼の太陽のごとき光のみならず、明け方の太陽のようなひだまりでもある。月から見た太陽は頑固で直感的であるが、裏を返せば揺るがないのである。

 対して「月」は古くから知性の集成とされ、「moon」の語源「ma」は心を意味する語であることから、知性的と捉えられる。

 また、満ちて行く三日月と欠けていく三日月が対として語られるように、月自身も「明るい面」と「暗い面」の二面性を持ち合わせている。

 太陽から見た月は揺らぎやすく、不安定である。それは、月の満ち欠けによるところもあるが、太陽がなければ存在できない、太陽しかいないのだ。

 現在の太陽と月と比喩される人物のイメージは太陽崇拝の上で確立されたものだ 

 しかし、太陽崇拝は月の崇拝がなければ生じなかったものである。

 月があるから太陽が存在し、太陽があるから月が存在する。

 つまり、太陽と月は対の存在であるが、両者は互いがなければ存在できない。

 多くの創造神話で太陽と月が同じく生み出されたことからも取れる。

 ここから取れる太陽と月CPの萌え所は、その性質は対となり、交わらないように見えるに関わらず、互いが互いに存在し得ないと存在できないところにある。正しく、「二人で一つ」であり、「支え合って」いるのだ

  1. 太陽×月か、月×太陽か

 いい感じにまとめたのに、ここから余談がスタートする。読まなくても支障はないです。

さて、カップリングを構築する上で重要となるのが受け攻めの左右であろう。百合の場合は、受け攻めはない、という人もいるが、腐女子としては死活問題である。

 カップリングも一つの解釈、と捉えるとすると太陽が攻めでも、受けでも、月が攻めでも受けでも、人それぞれ、千差万別であるので、否定をする気は全くない。

 しかし、題に「神話的視点からの観測」なんて大それたものを付けてしまった以上、世界の神話では太陽が男性か女性か、月が男性か女性か、はたまたそれ以外も登場するのかを調べなくてはならない。

 太陽は男性的、月は女性的というイメージを持つ人も多いかもしれない。だが、『日本書紀』(『古事記』ではアマテラスの性別は語られない)で語られる我が国の神話においては、太陽神・アマテラスは女性であり、月の神たるツクヨミは男性であることは有名である。

 (だが、中世の『源平盛衰記』では衣冠束帯の貴族の男性の姿で、室町時代には烏帽子をかぶり、笏を持った男神として描かれている。中世における『日本書紀』の注釈研究でもアマテラスは男神とされた。アマテラスの別名は大日孁貴(オオヒルメノムチ)で、太陽神として信仰されていた中、古代の天皇像を反映して多様な姿に反映された。つまり、アマテラスの性別も女性とは断定はできない。)

 ドイツの民族学者レオ・フロベニウスによると、太陽の月の性別分布は主に4つに分けられる。[6]

 

 Ⅰ双子コンステラツィオーン(化石文化)

              太陽も月もともに男で、双子の兄弟。

 Ⅱ兄妹コンステラツィオーン(月文化)

              太陽は女、月は男で、兄妹または姉弟

 Ⅲ金星コンステラツィオーン(月文化の亜種)

              月が男で、金星がその恋人。

 Ⅳ夫婦コンステラツィオーン(太陽文化)

              太陽は男で、月がその情婦か妻。

 

 コンステラツィオーンとは組み合わせの意である。上記の分布をまとめると以下の通りになる。(図は原図が見づらいので筆者が作り直した。)

 

f:id:hpedpr:20170912220103j:plain

 

 世界で一番広範囲に見られるのは金星コンステラツィオーンである。(図にはない。)

 しかし、ここまで太陽と月CPについて語ってきたに関わらず、突然金星とか間男かよ、という感じではあるが、創造神話において、ジンバブエのワハマルンガ神話では世界は月と明けの明星、宵の明星が作ったとされるし、シュメールのイナンナは金星でもある。つまり、世界の神話において太陽と月は不変の存在であるが、その組み合わせは多様である。

 私個人は太陽×月CPが絶対的存在であるが、金星のような存在がいてもいいし、この多様性は同時にカップリングのありとあらゆる可能性を示しているのだ。

 

  1. おわりに

 ここまで太陽と月CPについて長々と語ってきたがどうだっただろうか。

 以前、太陽と月CPに対し、「太陽と月CPはその型にはめてしまって面白くない」という声を耳にしたことがある。

 確かに、現在知見される太陽と月の在り方は西洋における太陽崇拝の影響は大きく、それが型を決めた原因なのかもしれない。だが、自然という枠組みのない存在に例えられる太陽と月が、カップリングの「枠組み」にはめられてよいのだろうか。

 世界中の太陽と月の在り方はそれぞれである。定義などという「型」そのものを語っておきながら言うのもどうかと思うが、月崇拝の観点から語れる太陽と月CPがあってもいいし、金星崇拝から語られてもいい。

 神話は人が作ったものだ。世界中の神話は千差万別の人々の思考の集大成である。これを読んで少しでも太陽と月CPに興味を持ってくれたあなた、あなたなりの太陽と月CPを見つけて欲しい。

 ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

参考文献

ジュールズ・キャシュフォード著、別宮貞徳・片柳智恵子訳『図説 月の文化史』(柊風舎、2010年)

諸橋轍次大漢和辞典』(大修館書店、2000年)

小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典』(小学館、2009年)

増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房、2012年)

宮島鏡・関口靜雄『第6回 おふだの文化史展 ―解題―』(深川番所、2012年)

山田仁史「神話における太陽・月・星の関係性」(東北宗教学第5巻、2009年)

 

注釈

[1] 「太陽 月 CP」でTwitter上で検索をすると、2010年8月7日のみづき氏(miduky_o)のツイートが最古のツイートとして該当するだろう。(

 

、閲覧日2017年8月22日)

[2] ジュールズ・キャシュフォード著、別宮貞徳・片柳智恵子訳『図説 月の文化史』(柊風舎、2010年、p.257)

[3] うたまっぷ

メロディアス・ムーンライト 月読調(南條愛乃) 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

、閲覧日2017年9月2日)

[4] うたまっぷ

デンジャラス・サンシャイン 暁切歌(茅野愛衣) 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

、閲覧日同上)

[5] ググれば全てがわかるが、参考動画を載せておく。とてもヤンデレなお方です。

 

www.nicovideo.jp

[6] 山田仁史「神話における太陽・月・星の関係性」(東北宗教学第5巻、2009年)

tohoku.repo.nii.ac.jp